お侍様 小劇場

    “孤独な夢は もう見ない” (お侍 番外編 93)
 

      



 曖昧になっていたのは、極力見ないようにと努めていたから。二十年以上の歳月を経たこともあり、随分と遠くなった筈の過去は、だが。ちょっとした鍵一つであっさりと、すぐ間近まで手繰り寄せられて。そう。そのころの自分は、シチローと呼ばれていた。正確な名前なぞ意味をなさない。ともすれば お前とかチビとかグズとか、そんな呼ばれ方のほうが多かった。何の仕事をしている人かはとうとう判らずじまいだった伯父夫婦は、二人そろって 自分たちは満たされちゃあいないという不機嫌そうな顔をし、いつもいつも人を悪く言うのが常であり。他人の不運を喜んでは溜飲を下げているような、そんな人性をしているところまでお揃いで。

 『アンタぁ、さっき民生委員のバアさんに厭味言われたよ。
  あんたんトコで子供の泣き声がしょっちゅうするけれど、
  もしかして“ぎゃくたい”とかっての してないだろうねって。』

 『なんだ、あの偉そうなババアかよ。』

 『一番小さいボクがいつも眸を真っ赤にしてるだろって。
  厭味なバアさんだ、いつもいつも覗いてやがんだよ。』

 『シチロー、てめえのせいで恥ぃかかされたんだとよ。
  また ぎゃあぎゃあ泣くようだったら、
  その口をぶっとい針で縫い留めちまうぞっ!』

 日常的なこととして、言葉でだけじゃなく実際に叩かれたり蹴られたりもし。機嫌次第で食べ物も与えられない日もザラで。彼らの子供らも似たような存在であり、厄介者だと双親がなじる対象を嘲笑い、自分たちが恵まれない不満を乱暴にぶつけては、ヒステリックに笑っていたものだった。何処にも誰も、すがる人も頼る人もないままの生活がどのくらい続いたかを、自分では正確には覚えていない。思い切って逃げ出しても、幼い子供だ、遠くまで至るその前にすぐにも親切な人に保護されてしまい。外づらだけは良かった彼らが、そのときだけはぺこぺこと頭を下げつつ連れ戻しに来て。戻った“家”では前より酷い仕打ちが始まるだけ。今ほどに、いやさ 今以上に、法も仕組みも整備されてはなかった頃合いだったから。子供本人の声なぞ誰も聞いちゃあくれなんだし、いつしかそれも諦めるしかなくて。あとどれほど こんな日々が続くのかなぁと。いっそのこと何も感じない身になれたらなぁと。日にちを数えるのさえ辞めてしまい、絶望というものに身を浸しかけていたそんな折。

 『…七郎次くんだね? やっと見つけた。』

 感に堪えての目許を緩め、それは優しく笑いかけてくれた人。ぼろを掻き集めただけのじめじめして冷たい寝床に、自分から膝を突いて身を屈めると、伸ばされた力強い腕でそおっと抱え上げてくれて。それまで絶対の存在だったサネオミの伯父を、威嚇の一瞥だけで震え上がらせ、その場へ凍りつかせたその人こそ、当時の島田一族宗家の惣領、勘兵衛の父であり。その風格のある威容でもって“もう二度と我らに会うことも適うまいよ”と、冷たく言い放って伯父を突き放し。すっかりと萎縮し切っていて、体や年齢だけじゃない、自負も意欲も士気も、何から何まで小さかった七郎次を、いたわるように包み込み、そこから連れ出して下さったのだ。





       ◇◇◇



 「素人の動画投稿っての? あれで見つけたんだ、やっとな。」

 男は勝ち誇ったように言い、そのダミ声は雨脚に紛れることもなく、重くてザリザリとした響きだけを七郎次の耳へと届けた。身がすくんだままで思うように動かない七郎次であり、そのくせ相手が掴んだままの腕を引けば、それへとすんなり引き回されてる。車へ乗り込むということもないまま歩み続けるのは、確かに自分の知っている町のはずだのに。通ったことのない路地ばかりを選んでいるせいもあってか、もはやどの辺りにいるものか、さっぱり判らなくなっており。ところどこ、庇のないところも突っ切ったせいで、束ねていた髪や少し大きめのシャツを着た肩が雨に濡れ、肌に張り付くぬるまった水の感触が、重くわずらわしいのに不思議と…妙に遠くに感じられ。

 「あんたみたいに派手な美人さんが、
  何でまた20年以上も見つからなかったんだろうな。」

 日本人の顔かたちなのに、こうまでくっきりした金髪に碧い眼で。しかも ずんと長身で美形でよ。ご町内でも人気者とくりゃ、日本びいきの外人とか何とかって ケーブルテレビ辺りの取材が来てもよさそうなくらいだろうによと。歩いている間中、ずっと何かしらしゃべり続けている男だったのは、よほどのこと、七郎次を発見したことで気分が高揚し興奮していたのだろう。というのも、

 「まあ、こっちも15年ていう“時効”があったから、
  それが切れるまでは目立つことは出来なんだワケだがな。」

 20年前で15年の時効と言えば、随分と物騒な罪に課せられる時効を指すのじゃあ…と。七郎次が正気であれば、そのくらいあっさりと感づいただろうが。茫然としきっている今の彼には、何も耳に入らぬ状態であるらしく。腕を取られての引かれるまま、路地をぐいぐいと引き回されていることからして、尋常じゃあないと言え。そんなところはさすがに相手の男へも伝わったようで。足元に放置されたがらくたの目立つ、一段と幅の細い路地を進みつつ、ふとその足を止めると。自分が引き回している青年のお顔を、目許を眇めてじいと覗き込み、

 「おいおい、しっかりしなよ。
  別にあんたへ何かしようってんじゃない、聞きたいことがあるってだけだ。」

 壁際へ寄るとかすれば多少は防げる雨垂れを、何の抵抗もせずにまともにかぶっている道連れへ、今頃気づいて“あ〜あ〜”と呆れ。節の立った手を延べると、前髪を払いつつ顔を大雑把に拭ってやって、

 「ほれ、もうすぐそこだ。ついて来な。」

 彼が自分の肩の向こうへと親指立てて差したのは、無人となって随分になることを思わせる、赤錆のまだらに浮いたトタン板で囲まれた、何かの作業場か資材倉庫の跡のような建物だ。上半分へ金網入りの曇りガラスのはまったおざなりなドアを、何度もノブを回しての最後にはドンと、下の方を重そうな靴のかかとで蹴ってやっと開けたその攻撃的な物音へ、七郎次が思わず肩を震わせる。顔の白さが尋常じゃあないのは、血の気が引いているからか、それとも随分濡れたことから不快さが増しての、気分が悪くなりつつあるのか。屋根があるためとそれから、雨脚が多少は弱まったものか、トタンの小屋の中は少しは静かで。だが、窓が奥まったところに1つしかないものだから、屋内は随分と薄暗い。足元はコンクリートの打ちっ放しという床で、見回した空間にはほとんど調度や荷物らしいものはなく。梁から下がるは重々しい鎖の影だし、剥き出しの鉄骨の柱の足元に、雨に溶けたか形もぐずぐずな段ボール箱の残骸と木箱とが放り出されてあるくらい。雨に濡れた土の匂いか、どこからか錆臭い匂いがする空き家には、この男の連れらしいもう一人が待っており。持っていた携帯をぱたくりと閉じながら、髪の少々寂しい頭を手のひら伏せてスルリと撫で上げ、

 「へえ、連れて来れたか。早かったな。」
 「ああ。○○で見たのと同じ商店街から出て来たんでな。」

 目串を刺してた通りだったと、自分らの敷いた策が首尾よく運んだことを下卑た笑いようで確かめ合う彼らは。口調の闊達さで惑わされそうにもなるけれど、よくよく見れば…勘兵衛くらいのいい年頃をした面々で。定まった職業に縁がない身なのだろか、余計に正体不明で、掴みどころのない男らであり。

 “………そうだよな。20年も経っているのだもの。”

 自分がすっかりと大人になっているように、あのころ大学生だった勘兵衛が重責担うに相応しき、頼もしい壮年となっているように。関係者も全員がそれなりの年を経ており。ああでも、早逝なされたお館様や大奥様は、自分の記憶の中でお年を召さないままだから。それで…あのころを思い出すと、自分もまたずっと幼い心持ちに、あっさりと戻ってしまうのかも知れぬ。ずっと押し黙っているこちらを、どう思っているのやら。呆然としているのは、身を隠していたらしいこと見現されたからだろとくらいに解釈したか、

 「何か言い含められて、こんな遠くへ隠れ住んでたんだよな、お前さんはよ。」

 待ってた男がほれと差し出した缶ビール。それをとり急ぎ ぐいぐいとあおると、依然として心ここにあらずな七郎次を振り返り、相変わらずのダミ声でそんな言いようを繰り出す彼で。

「あんたがいた家の サネオミの親父と俺の親父は遠縁の兄弟みたいな間柄でよ。20年前のあの頃、色々と結構な仕事を一緒にこなしてもいたんだが。ちょいとやばいヤマを捌き損ねてな。親父もパクられやがったその上、奪(と)った金をすぐには使えねえって羽目になっちまってな。」

 まさか、あのくらいで警備員のおっさんが死んじまうとは思わなんだからな。しかも、嵩張る延べ金は重いばっかで、換金するにも手間暇が要ったしで。親父が持ってるとやばいからって言いくるめ、全部をどっかへ隠しやがって。

「そのうち、俺は別の事件でパクられて。仲間内も似たような事情から散り散りになっちまったが、俺りゃあ諦めなかったさ。」

 ムショから出て、最初に探したのがサネオミの親父だ。俺の親父が預けた金塊は、やっぱ換金するにはヤバかったか、手つかずでいたらしかったけどよ。それにしちゃあ、妙にこそこそ身を隠してやがるから様子が変で。6年前にやっと見つけたもんの、隠し場所なんか覚えてねぇの一点張りだ。ガンガン絞り上げたらおっ死んじまってよ。カカァが震え上がってやっと吐いたのが、そのころ住んでた…つっても廃屋へ勝手に潜り込んでたらしいんだが、古い屋敷の地下の金庫に置いたままになってるって話でよ。据え付けのごついやつで、12桁もの番号が要って。11桁までは書き付けがあったんで判ったもんの、どうやっても開かねぇ。そういうのに詳しい奴に調べさせたら、もう1個番号があるはずで、それが判らにゃ、どんなに力ずくに当たっても開かないって話でよ。

 “………………?”

 言葉が乱暴なのもあってのこと、何をべらべらと並べている彼なのかが判らない。呆然としていたものの、多少は落ち着いて来た七郎次が、顔を上げると緩慢な仕草で小首を傾げて見せれば、

 「自分の女房も信じてなかったんだぜ、あの親父。」

 忌々しげに言い放ち、飲み干した缶をぐいと握り潰して話を続ける。開けられないというのは、錠前に関しての話だけじゃあない。大元の家主は金融関係者でもあったのか、運び出されぬようにという配慮から、やたら頑丈なその上、据え付けになってる代物なので。地下室から壁から壊して剥き出しにでもしないと こじ開けるのは無理という話で。そうまでの大騒ぎをしてちゃあ怪しまれること請け合いだから、何としてでも扉を開けたい。そこで女房のほうを、亭主みたいになりたいかと脅し賺(すか)して聞き出せたのが、

 「そのころ預かってた金髪のチビさんへ、
  何かしら、こっそり手ぇかけた伯父貴だったようだって話でな。」

 泣くとますます叩かれることを覚えたか、可愛げなくもあんまり泣かなくなってたはずが、とんでもなくギャンギャンと泣いてた日があって。水商売をしていて昼間は起きてられなかった自分が手ぇ上げて どやしつけかかったら、どういう風の吹き回しか、機嫌の悪いときもあらぁとかいって、ちびさんを庇うような素振りをしてた。珍しいことはまだ続き、それまではてんで気にかけなんだくせに、新しいシャツを買ってやったりもしてねって。そういや、父親がいいとこの御曹司か何かだって話だったから預かってた子供だ、そのお迎えが連絡でもつけて来たかねと訊いたんだけど、あいつ、アタシには何にも教えなくってさ。そんなことをしたもんで罰が当たったか、とんでもないお迎いが来て、ありゃあきっと“筋もん”だろうね、手下を山ほど連れて乗り込んで来て、ちびを掻っ攫って帰ってったから…なんてこと、べらべら喋ってくれたんで。

「どっかに書き残したんじゃあ、あの女房に出し抜かれるかも知れねぇって心配したんだろな。最後の1桁だけ、お前さんに預けたらしいんだ。」

 こちらを見据える彼らの視線に、

 「あ…………。」

 あまりに急な脅威への衝撃から、曖昧にぼやけていた意識が、少しだけ焦点を絞り始める。そうだ、当時はそれは幼い子供だった自分なのだ。何かしたとか、何か預かっていないかとか、そんな用件で尋ねられるはずがなく。こうまで執念ついやして、追って来ての話があるというのなら、期待していたらしき謝礼もないまま七郎次を強引に連れ出した島田の家への言い掛かりか、若しくは……、

 「覚えてなくとも覚えはないか? そう、体のどっかに、痣とか火傷の跡とかよ。」

 再び腕をむずと掴まれ、濡れたシャツの袖を強引に引かれた。

 「ごくごく小さいもんだろし、
  誰にも怪しまれないよう、眸につきにくいところにあるはずだ。
  背中とか尻とか、本人にも見えにくいようなな。」
 「背中だと着替えん時に他の奴には見えっだろよ。」
 「だよな。となると、尻や股ぐらかねぇ。」
 「そんなところを覗けってか?」

 悪い冗談だろと笑いつつ、だが、こちらへと向けられた2組の視線は、堅く据えられての外れぬままだ。七郎次を連れて来たダミ声男のほうが、再び二の腕を掴むとシャツの袖を何度か引っ張ってみて。濡れたシャツは脱がせにくいと察したか、そりゃあ無造作に、履いていたワークパンツの後ろポケットから取り出したのが、重々しそうな大きめのカッターナイフで。チキチキというあの独特な音をさせ、片手で刃を押し出すと、その先を袖口に差し入れ容赦なく引き上げる。ぐいと引かれた感触に腕まで浮き上がったのがとさんと落ちて、あらわになった右腕には何の影も無いと見るや、今度は胸倉を掴みあげたダミ声の男だったが、


 「そうか、あの一家の家長を殺したのはお前らだったか。」

 「………っ!?」


 唐突に割り込んだ声があり。ハッとした男が、だが これだけは取り逃がすまいと思ってだろう。周囲をあたふた見回しながらも、咄嗟の反射で七郎次の二の腕を掴んでいた手へ力を込めかけた、その…すんでの寸前。どこから割り込めてのその角度で真っ直ぐ薙ぎ払えたのかが、どう考えても合点のゆかぬ巧みさで。誰かの手がその手をぱしりと、汚らわしいと言わんばかりの容赦のない力と鋭さをもってして突き放しており。

 「…あ。」

 まだどこか呆然としていた白皙の美丈夫が、同じ勢いに撒かれかかってふらついたのを、返す動作で引き寄せ、受け止めている周到さよ。横へとたたらを踏みかけたその身、ぽそんと懐ろで受け止めたその人は、

 「すまなんだな、遅れてしもうた。」

 低められた響きのいいお声でそうと囁くと、七郎次の濡れている髪を、なのに少しも厭わず撫でてくれる。その大きな手の重くて頼もしい感触が、

 「……………ぁ。」

 自分も濡れること厭わずに、この身を掻い込んでくれているスーツの生地の感触の向こうで。覆い隠されてしまうことなくの雄々しいまんま、力強く息づく筋骨の存在感が。確かに覚えのある堅さや匂いを伴っていることが、じわじわと…呆然としたままだった七郎次の意識に染みてゆき、焦点も危うかったその双眸を冴えさせてくれて。そんな彼が顔を上げかかったの、だのに そおと頭ごと押さえたのとほぼ同時、

  ――― どん、っという

 地響きと風圧つきの大きい音が間近で立った。思わずのこと、ひっと身がすくんだ七郎次をぎゅうと支えるように…そしてそうすることで耳をふさがせてくれたその人の立ち姿へと、頭上からの明るさが降りそそぐ。バラックに間近いその作業場の、トタンの屋根を外から一気に剥がしてしまったらしく。遅れて倒れた木組から、多少の残骸がばらばら降るなか、先程までとは比じゃあない明るさがいきなり満ちて、彼らの眸を容赦なく射た。

 「な………っ。」

 さっきから起こっている何から何まで、そりゃあ鮮やかな手品のようにしか思えずに、唖然呆然とするしかないでいる男二人の居廻りへ。ばらばらばらっと足並みも機敏な顔触れが数人ほど、無駄な足音もないまま、それはなめらかに進み出て来たところでようやっと、

 「何もんだ、てめえっ!」

 我に返れてのことだろう、それなり威勢のついた怒号を放つ。かっちりとしたスーツを隙なく着こなすほどに、少しは体格も良さそうな相手だが。所詮はホワイトカラーの勤め人風。こちとら素人じゃねぇんだ、人を怒号で震え上がらせるのなんざ容易いんだと、そんな威風を吹かせたかったらしかったものの、

 「サネオミの一家が夫婦ともども行方知れずとなって五年は経つが。
  さようか、お主らが手をかけたというのなら、成程 見つからぬ訳だわなぁ。」

 「…っ。」

 一向に怯みもしない、むしろますますのこと落ち着き払って、こちらへの手痛い言いようを重ねる彼であることへ。喰ってかかった側が ぐうと喉を鳴らしてしまい、二の句を告げずにいるのだから世話はなく。そして、

 “…………勘兵衛様?”

 此処にひょいと現れたこと自体、どんな離れ業をお使いになったのだろかと、七郎次にも見通せぬよな突発事態ではあったものの。この堂々とした態度といい、全ての事情に自分以上に通じておいでなのは何とか判った。当事者は間違いなくこの自分であろうに、話の発端となる頃合いはまだ幼子だったからと、庇われての聞かされていなかった何事か。何年もかけても構わぬとし、何人かの命も絡んでいるよな発言も飛び出しのしていた物騒な何かへと、もしかして巻き込まれかけていた自分であるらしく。

 “…でも、5年前に消息が取れなくなってたなんてこと。”

 金にならなかったばかりか、恥をかかされもしたことを逆恨みし、七郎次へと付きまとうやも知れぬと恐れてのこと、あの一家をその後も監視していた勘兵衛らだったということだろうか。そうでもなければ把握出来はしないことだとの、筋道立った結論を導き出せるまでの意識の覚醒に立ち戻った七郎次を、あくまでもその懐ろへと匿ったまま、

 「20年前の強盗殺人の方は確かに時効が成立しておるが、
  今の今、べらべらと語った こちらの殺しで警察へ引き渡せる身か。」

 だが それだと結審までに時間も掛かろうし、我らとの関わりを自暴自棄(やけ)になって警察や法廷で放言しかねぬわな…と。それにしては他人事のように、さらさらと口にした勘兵衛、

 「…まあ、検察の関係者がそんな空言を信じたり聞き入れたりするとも思えぬが。」

 くくと短く笑って見せてから、

「それに。そんな生ぬるい裁きで下される仕置きじゃあ、大元の一件で命落としたお人の身内も納得すまいからの。」

 よって。お主はそれなりの組織へ送ってやろうぞ。当時の事件で面目玉を潰された組織があってな。なに、馴染みの組だからの、話はとうにつけておる…と、そこまでをすらすらと語り並べた壮年へ、

 「ま、待てっ!」

 それは速やかに、しかもよくよく咬み砕くと何だか恐ろしい方向へと、勝手に進んでゆく話なのへは さすがに焦ったのだろう。怪しい男二人が慌てて助けを求めるように周囲を見回し、

 「おま…あんた一体何もんなんだ。いやさ、そいつの体に、何か痣はあんのかよ?」
 「訊いてもどうにもなるまいに。」
 「教えなっ!!」

 喉が避けるかというほどの、大きな声になったのは、その身を何本もの腕で取り押さえられたことへの恐怖から、理性が飛びかけた恐慌状態になりかけていてのことなのだろう。こんな…どこぞの破天荒なドラマや映画のような展開に飲み込まれようと、ほんの数分前までは欠片ほども思っても見なかった彼らに違いない。重機の起動する物音もなくの、だのに結構な大きさのあるトタン屋根が一気に剥がされた大技といい。自分らを取り巻く連中は、頭数こそいるけれど さして強引に押さえ付けられている訳でもない。だのに、自分の腕が少しも動かせぬ不思議といい。ワケの判らぬことだらけなのへ翻弄されているのは明白、放っておいても…その混乱に気持ちが散漫になっての何も思いつけぬまま、容易くあしらえそうで。何を恐れてやる必要があろうかという、絶対優位な力関係となっていたのだが、

 「あった。」

 いつの間にやら、怒涛のようだったにわか雨は収まっており。時折どこかから滴り落ちる水滴を、きらきら光らせる薄日さえ差し始めていた明るみの中。そりゃあくっきりとした声で敢然と言い放ち。だが、それと同時に

 「…っ。」

 ひくりと身を縮めてしまった七郎次を抱く腕へ、力を込め直した勘兵衛でもあって。

 「肩甲骨の陰にな、
  インクか何かで強引に刺したのだろう、
  小指の先ほどの入れ墨もどきがあったらしいが。」

 問いかけた男へというよりも、懐ろへと掻い込んでいる存在への説明のように。ほのかに悪戯っぽい笑み浮かべ、腕の中を見下ろして語り続ける壮年殿へ。こちらも、自分の身の上にまつわることなだけに、真摯なお顔で見上げ返している七郎次であり。青い双眸を頼りなく揺らめかせる白いお顔、愛おしむようにますますと笑みを深めつつ付け足されたのが、

 「…今はもうないぞ。」

 思わせ振りに焦らすこともためることもせずの、あまりにもあっけらかんと。すっぱりと言ってのけられた“結論”で。

 「な…っ。」
 「嘘やデタラメなんかじゃあないさね。
  無かったとは言うておらん、あったが消しただけのこと。」

 反駁の怒号が放たれる前に、絶妙の間合いで鼻先へ突き付けられた容赦のない言いようは、今度こそ…優位な身を誇示して余りある、いかにもな不貞々々しさを滲ませた強かな笑みに乗ったそれであり。

 「何せ当時のこやつはそれは幼い子供であったからな。
  怖い目に遭うたことを思い出させては、どんなトラウマになるやも知れぬ。
  そこで、新陳代謝がずば抜けていたのを幸いに、
  少しずつ色素を中和する術をほどこして、半年かけて拭い去ったのだよ。」

 言われた側の焦燥を窺い見たいか、少し眇められた目許が何とも底意地の悪そうな代物で。家人へ向けられる頼もしくも暖かな笑みとは真逆の、悪辣さの泥にまみれた冷たいそれだ。取り憑いたものから希望を吸い上げ、迫り来る絶望を覚悟するしかなくなるほどの、黒い威力に満ち満ちており。

 「く……。」

 もはやこれまでと、やっとのこと理解がその頭の隅々にまで行き渡ったか、咬みつかんばかりという形相をしていたダミ声男が、憤懣の息を吸い込んだ胸板を膨らませたものの、そのまま…くうと喉を鳴らして萎えさせたのが判りやすいったら。とうとう観念したらしいと見定め、小さく目配せを送ることで、他の面々への合図とし、彼ら二人を引っ立ててゆかせて、さて。

 「………勘兵衛様。」
 「んん?」

 いきなり襲った土砂降りの陰にて。それもまた刹那の悪夢だったものか、過去からの来訪者に襲われた七郎次が、何とも頼りないお顔あを上げて見せる。それぞれ手筈も織り込み済みらしき駿河の“草”の皆様が、立ち去り際に勘兵衛へと手渡したのが柔らかな毛足もふっくらしたスポーツタオルで。おおそうだったと、まだあちこち濡れたままの恋女房をそれでくるんでやっておれば、

 「あの………。」

 さんざん泣いて泣いて、泣き疲れた幼子のような。ひどい疲労に放心しかかかりといったお顔をしながらも、それでも真っ直ぐ見上げて来る眼差しが、何かを聞きたそうに揺らめいており。痛々しいことよといたわるように目許をたわめた惣領様、

 「体中のどこにも、ホクロの1つもないそれはそれは綺麗な肌をしておる。」
 「…………………勘兵衛様、そういう言い方は。////////」

 聞きたいことを読み取ってくださったのはおサスガながらと、そこはブレていなかったのが、却って口惜しいというか恥ずかしいというか。違いますと完全否定も出来ぬまま、はぐらかされたのへ、七郎次が ううと焦れたように唇を咬みかかれば、

 「お主に教えるつもりは無かったからこそ、
  気の長い取り除きようをしたおふくろや親父だったのだしな。」
 「…っ。」

 今度こそははぐらかさずの、真っ当な真相を告げてくださり。それ以上はおあずけと、額や頬に張りついた髪、タオルの端でわしわしと拭ってから掻き上げてくれる、少し荒っぽい扱いが痛かったものか。見る見る口許が歪んでの目許を潤ませかかる七郎次だったのへ、あわわと困ったように目を見張った勘兵衛だったの、

 『いやはや、俺も見たかったもんやなぁ。』

 ややこしおっちゃんら、例の組のもんへ引き渡しといたえという事後報告を伝えて来た電話にて。誰ぞがそこまでを見ていなければ、知られないはずの顛末、実は知っておりますよと匂わせた西の総代、良親の一言へ、倭の鬼神がしょっぱそうなお顔になるのは後日のお話。





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